悠久城風の間 blog語り部のささやき

悠久城風の間の語り部 楯よう子のささやき

海辺の松は何を見る?

f:id:yuukyuujyou:20200418192304j:image

新潟のむかし話「人魚の松」では、島の娘お弁が夜ごと、佐渡からタライ船に乗って番神岬を目指し、宗吉の元に通うのだった。宗吉は断っても断っても、また次の晩にはタライ船でやってくるお弁の一念がおそろしくなって、番神さんの御燈明を消してしまう。そしてその晩は大嵐になった・・・波にのまれたお弁は、人魚となって海の底・・・?タライ船には、金色の魚のうろこのついたお弁の着物が残されていた。後悔にかられた宗吉は着物を埋め、その上に松の木を植えたと。

お弁の身体は海の泡と消えたのか、あるいは人魚となって海の生きものとして生き延びたのか?

お話ではそこまでは語っていない。しかし、お弁の宗吉への思いは、お弁の身体から離れてのち、松となって美しい枝を伸ばしたらしい。

これは悲しい話なのか、恐ろしい話なのか?

お弁の恋が成就しなかったのは、お弁には悲しいことだっただろうが、嵐に命を奪われてもその身は人魚になっても、お弁の魂は地上に残って松の中で生き続けるのか?

なんて激しいのでしょう・・とわたしは少しあきれる。

 

だいぶ前のことだが、わたしは番神岬近くにある人魚館に夜ごと通っていたのだ。人魚館のプールで夜ごと練習したら、人魚のようにスイスイ泳げるようになれそうだ。・・というのは甘い考えで、やっぱりわたしはクロールで息継ぎができないままである。わたしはその地で一日毎に疲れ切り、泳ぎの練習どころではなく、すぐにプールを素通りして浴場に直行していた。ただ、早めに行くと、お風呂に入りながら日本海に沈む夕日を眺めることができた。視界の中に海と空と夕日だけが見えた。その一瞬がわたしには貴重なものだった。

 

海辺に植えられたお弁の松は、何を見ただろう。

お弁を海にのみ込ませ、後悔に身をさいなむ宗吉の姿?

それとも妻子に囲まれて幸せな宗吉?

 

そして、今、松はこの世の何をみているだろうか?

 

松は、海風に枝葉をそよがせ、海や山々や日の巡りを眺めているだろう。

 

わたしは山姥を終えたら、海辺の松になって、越後の山から昇る朝日と、日本海に沈む夕日を眺めて過ごしていたいと思う。

 

令和2年卯月 桜吹雪のなか、心騒ぐ今

 

令和からの紙芝居と語り 悠久城風の間ホームぺージ

http://yuukyuujyou.starfree.jp/ 

Works 旅の声 http://yuukyuujyou.starfree.jp/works.html

「人魚の松」新潟のむかし話 

かわいそうで涙がでそうな話 

新潟県学校図書館協議会編2000年

https://www.youtube.com/watch?v=JQ82PTYGCdU