新潟のむかし話の「屁っこき嫁さ」は、確かにおかしくておなかをかかえてしまう話である。わたしもしばし、おなかのけいれんが続いたため、読み進められなくなってしまったのだ。老若男女に下ネタは受ける。自分の下ネタへの反応が恥ずかしくて、わたしは笑い続けてしまうのか?
しかし、この嫁さはそんなに下品でない。かわいくて心惹かれる。
なぜ、この話にこんなに心惹かれるものがあるのか?
1 偉大なる放屁力
かつて、これほどの放屁力を見たり、聞いたりしたことがあったか?
実はある。水谷章三脚本による紙芝居「へっこきよめさま」である。これも民話をもとに書かれているから、全国各地に似たような話は語り伝えられていたのだろう。
昔から、放屁力の大きさは尊敬の念をもってみられていたのだろう。その大きさで簡単に生命力をはかることができたのかも。
意外にもかわいい嫁こそが、最も生命力にあふれているのだ。だから放屁力も絶大なのだ。
この話は、大きな放屁力を描くことによって、生命力への賛歌としている。
2 嫁への敬意
昔の日本では(今でも一部残存する)家父長制なるものがあった。祖父や父の放屁態度を思い起こすと、その大きさでもって、生命力を、さらに家庭内における自分の権力を家族に誇示しようとしているとも見えた。
このむかし話では、権力はないが強い生命力をもっているのは、実は嫁であった。
姑ばさは、屁が出たいのに我慢して青くなっている嫁に遠慮せずに屁をこけと促し、屁の風で怪我をしても嫁をかばっていた。嫁を里に帰そうとしたあんにゃも、嫁の放屁力が役に立つものであることに気づいて、家に連れもどした。嫁の放屁に寛大な姑ばさとあんにゃである。嫁はとりたてて自分の放屁力を誇示しようとはしていないが、嫁の放屁力は役に立ち、生活を豊かにしていた。
姑ばさとあんにゃは強い生命力に敬意を持っている。自分たちが生きるために必要な力だから。そして、生命力のあらわれである大きな放屁力を持つ嫁に敬意を持った。嫁であるということ自体が、大きな生命力を持つということであるのだと思うが、嫁を大切にしようとする姑ばさとあんにゃは好ましい。
今なら、屁の風が吹いたら、細菌やウイルスが空中にまき散らかされると、大騒ぎになるであろう・・
そんなことを屁とも感じないで、放屁力を生活を支えるエネルギーとして利用しようとするむかし話の世界のたくましさを、今こそ、とりもどしたいものだ。
令和2年如月 感染拡大を聞き重ね着をして春を待つ日
令和からの紙芝居と語り
悠久城風の間 http://yuukyuujyou.starfree.jp/
Works 旅の声 2020年2月 28日収録
「屁っこき嫁さ」
https://www.youtube.com/watch?v=gIdGflGtdi8