悠久城風の間 blog語り部のささやき

悠久城風の間の語り部 楯よう子のささやき

「その場に身を置くこと」

f:id:yuukyuujyou:20191018140831j:imageたとえば、バイオリンの演奏が心躍らせる時、もちろん、その曲の美しさと演奏の巧みさがあるのだが、演奏するバイオリニストをうっとりと眺めているような気がする。
感動させることに、バイオリニストの肢体と顔とその動きという視覚からの情報がどのくらい寄与しているものなのか?
それにしてもバイオリニストは美しい。
バイオリニストを醜いと感じることはあったっけ?
演奏がすばらしいと演奏している人を美しく感じる?
美しい人だけがバイオリニストになれる?
バイオリンを練習していると美しくなってくる?
わたしも幼い時から、バイオリンを習っていたら、バイオリンが弾けるようになって、かつ美しくなっていたのか?そんなチャンスがなかったのでわからない。
しかし、いうまでもなく演奏を聴くのは、あくまで聴くためであって、眺めるためではない。
演奏会と、たとえばCDではその違いは明らかだ。
演奏会では、聴覚、視覚、振動覚、体ごとあずけて、五感をすべて演奏に向けることができるが、CDでは耳だけだ。日常に身を置いて、例えば居間で、例えば高速道路上で。
演奏会では、わたしは客席に座っていながら、実は座っているだけではない。自分自身が演奏者になってしまっていることがある。CDを聴いているとき、わたしは野菜を刻んでいたり、車の運転をしていたりで、演奏者にはなりきれない。
バイオリンの演奏から朗読会に話を移そう。
音楽と朗読の違い。音楽が直接、感情に触れてくるのに対し、朗読では言葉が意味を伝えてくる。発せられる音から言葉を構成して意味をつかみ取るのに処理が必要だ。ぼんやりしていると、意味がわからないまま、時が流れてしまうから、聴くことへの集中が必要だ。わたしはそんなにたくさんの朗読会に行ったことはないのだが、外面からは朗読家はバイオリニストほど美しいとの感動は与えないようである。朗読自体はだれでも小学校からやってきていることである。なぜ、人は朗読会を開き、また朗読会に足を向けるのだろう。直接、語りかけ、また語りかけられたいからだ。部屋でCDでもいいが、部屋では気を散らす材料がいくらでもある。演者の息遣いがわかったほうが、深く話に入れる。視線を演者に固定することで、注意の的を語られる話にだけ向けることができる。目をつぶって視覚をシャットダウンして、聴覚だけにして話に集中しょうとすることもあるが、そうするとそのまま眠りに落ちてしまうこともありがちである。
演奏会で演奏者と一体化するように、朗読においても語り手と一体化できると、いいのだが・・。

 

令和元年 長月の末

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