「知り合いの10人が10人とも、顔は出さない方がいいといったよ」
と、鋭い目つきを投げてよこすS氏。
「若くなくて美人でないだろう。おばあさん、見たら、みんなすぐ消すよ」
「花とかのほうがまし。今度やるときは顔は出さないこと」
全く、容赦がない。
そこへいくと、師匠は、弟子を育てていこうという配慮からか、まだ遠慮がちの口調。
「隅の方に小さく顔を出している人とか、全く絵もなくて題名だけの人もいますよね」
いずれにせよ、正面の顔がずっと大写しになっているのはまずいと捉えていることは確かである。
若くはなく、美人でないと指摘されても、時空を超える語り部たろうとするわたしは、それほどたじろがないのだが、二人とも親切心で言ってくれているのだとは思う。
この二人の共通点は、男性であるということと、実は長い間、朗読に親しんでいるということがある。
S氏は、毎日、かなりの時間、youtube で朗読を聞いているのだということを、この前、聞いた。近頃は作品を本で読むよりも、朗読で聞くことの方がずっと多くなっているのだという。師匠は当然ながら、同業者の朗読をyoutubeでも聞いて、参考にしたり、肥やしにしたりしていたのだろう。
わたしは、自分がアップロードする前には、このような朗読文化圏があることすら知らなかったので、その作法についても全く無知である。
この二人は、まじめに朗読を聴き、また取り組む人である。その場合は、朗読だけを聴きたいので、それ以外の、音楽や映像などの付属物はできるだけ排除していたい。純粋朗読の世界では、映像はむしろ下手をすると、作品鑑賞への集中を妨げるものとみなされて、慎重に扱うべきものとされているらしい。
ところで、わたしは、これから朗読を行っていいこうとしているが、わたしが求めるものは
作品そのものかというと、ちょっと違うような・・気がする。
朗読は媒体であって・・・どう言葉にしたらいいか、迷うのだが、
ともにあること・・・
というようなことなのだと思う。
だから、顔を隠して見えなくするのは、変ではありませんか?
令和元年 長月のある日