悠久城風の間 blog語り部のささやき

悠久城風の間の語り部 楯よう子のささやき

「いるか」

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 悠久城風の間の扉を開くと、飛び込んでくるのがこの言葉だ。
「いるか・・いないか・・・・ゆめみているか」
谷川俊太郎のことばあそびから、何とわたしに書を書いてくれる人がいた。わたしには全く思いがけない事だった。
ある紙芝居劇場で、参加者みなと谷川俊太郎の詩を読んだのだった。
わたしはその昔、詩人になりたいと思ったことがあり、1篇くらい書いたか書かないかのところで、わたしが書いたところでだれにも読んでもらえないだろうと思った。受験勉強のほうがまだ勝ち目がありそうだった。ところで谷川俊太郎の詩に出会うと、わたしは、一瞬にしろ自分が詩人になりたいと考えたことを恥じてしまうくらいだった。彼には、湧き出す言葉がある。そして最近、詩は詩集に閉じ込めておいて、ひっそりと一人で開いてみるだけでなく、みんなで読んで楽しめるものであることに気がついた。詩はみんなで読めるものであるということがうれしかった。そしたら、その会のしばらく後に、参加者の一人が「いるか」を書にしたためて届けてくれたのだった。わたしは、詩は声に出して読むこともできるし、書として鑑賞することもあるのかと思った。それで、表装を頼んだ。
そういえば掛け軸には漢詩が書いてあったりしていたのだろうと思い当たるのだが、千年とか前の中国で書かれた不遇な人生など、わたしには遠いものだった。
出来上がった掛け軸には、新鮮な喜びを感じた。なんという書体かわからないが、文字がおしゃれで見ているだけで楽しくなる。そして今のわたしに直接問いかけてくるのだ。
「いるか?いないか?」と。
わたしは、実際、「いるのか?いないのか?」わたしは自分に繰り返し、問いかける。
わたしは、いるような気もするし、いないような気もするのだ。
わたしはなんだろう?なんでもないのか?
掛け軸の中の文字が、哲学的な思索に導いてくれるようだ。そのこともうれしい。
詩が文庫本の活字のままだったら、いわんやkindleをパソコンでみているのだったら、わたしはこんなふうに自分に問うたりはしないだろう。

 

令和元年 神無月のある日 神はいなくても人は考える。

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