新潟のむかし話の「旅学問」を読んだ。遊び人のあんにゃを旅に出したばさの方針も、体験から学ぼうとするあんにゃの姿勢も、とてもよいと思った。しかし、あんにゃは旅でおぼえてきた言葉を使おうとしたが、肝心な時に、相手には伝わらないのだった。これを笑い話にしてしまっているが、考えてしまうのは、意味が伝わらないことがあるということだ。
言葉に意味を載せて発するのだが、受け手はその言葉に別の意味を当てはめていて、言葉が聞こえても、発話者と聞き手の間で意味がずれたり、伝わらなかったりする。
あんにゃは、旅のあきんどから、二一天作の五というのは「一つのものを二つに割ることだ」と教えてもらった。あきんどはそろばんの割り算について説明したのだが、あんにゃは、物体に力が加わって割れたときにこれを使うのだと思った。石にぶつかって「頭は二一天作の五」というように。宿屋で客用のりっぱなお椀朱膳朱 わんが出されると、あんにゃはそのお椀の色がつやつやとして赤いことに目を奪われ、朱膳朱 わんというのは赤いことをいうがらな、と思った。このように人から教えてもらうのではなくて、状況から判断して学び取っていこうとする態度はむしろほめられるものだと思う。ただこの場合は、あんにゃの着目点がお椀の属性の色に向き、共通の言葉の意味からは外れてしまった。
あんにゃのことをそう笑ってばかりはいられない。
わたしたちはどうやって、言語を身につけて、使っていくのだろう。わたしの言った言葉の意味を、相手はわたしの意図したのと同じように受け取ってくれているのか、わたしは先方の言いたいことを、その言葉から理解していっているのか・・
表現されたものは、それだけですでにあいまいさを持ち、誤解もおこりうる。
どう言おうと、どう解釈しようと勝手・・?
意味が伝えられないと、人とつながれないのでは?
意味を伝えあい、人とつながりあって、わたしたちは集団で生きていくものだろうが・・
令和2年弥生 ロックダウンしそうな日々
令和からの紙芝居と語り 悠久城風の間ホームぺージ
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Works 旅の声 2020年3月15日収録
「旅学問」新潟のむかし話