新潟のむかし話2の「長い長い名前」
古典落語の世界にも「寿限無」があり、早口言葉としても親しまれている。
生まれた子どもがいつまでも元気で長生きできるようにと考えて、とにかく「長い」ものが良いととんでもない名前を付けた、という笑い話。
落語は語り伝えられているうちに、話の筋が改変されたようだ。子ども同士のけんかでたんこぶができたが、長い名前が繰り返されているうちに、たんこぶがひっこんでしまったというオチに。
しかし、新潟のむかし話では、どうやら、話の原型をとどめていて、長い名前の子は井戸に落ちて、長い名前が繰り返されているうちに命を落としてしまう。本の目次では、おかしくておなかをかかえる話として並べられているが、おなかをかかえて笑うどころか、ドキッとする話の結末。さすが、新潟のむかし話は民話だと思わせる。大切な幼い命が失われたが、これをも含めて笑い話として受け止めようとする度量の深さというのだろうか。このたくましさがなければ、われわれは生き延びていけないということか・・。
子どもができずに毎日毎日10年も「子どもがほしい」「子どもがほしい」と言い続けていた、ととさとかかさ。子どもを授かったら、それはそれは大喜び。
「あんまりかーわぇて、ふつうの名前ではもの足りなぇし、なーご生きるよに、なーごて、りっぱな名前をつけてぇもんだ」
というのはうなずける。
しかし、結果からみると、「なーご生きるよに」と願うことはもっともであるが、
「なーごて、りっぱな名前をつけてぇもんだ」
を実行したことは行き過ぎだった。
わたしたちの願いと行動とは深く結びついているだろうが、願いは大きくても外には漏らさず、表にでる行動は長すぎず大きくし過ぎないことが安全に生きる道だということだろうか。この地の人々はそのように安全に生きようと行動を制御してきたのか・・?控え目の人が多いようだが・・
落語のようにたんこぶができたとしても、子どもの名前が長かろうか、短かろうが、たんこぶだったら、自然に消退する。けんかでできたたんこぶが、長い名前を繰り返しているうちに、消えてしまっていても、笑って済ませられる。
ただ、新潟のむかし話のように、子どもが井戸に落ちたとなると、事は一刻を争う。ここでは長い名前を付けられた子どもは、どうやらその名前の長さのために、命を落としてしまった。名前は親の願いを表すものでもあるだろうが、その願いを、呼名する際のその働きの重さにしてはならなかった。
いずれにしろ、長すぎるもの、大きすぎるものは、不都合であったり役に立たなかったりすることは、様々な組織や事業にも見て取れることではある。
大きな願いに大きな事業計画。
いったん、動き出してしまったものは、特に予算がついてしまったりすると、簡単には中止にもっていけないようでもある。
危機的状況や変化に素早く対応できるか?
見通せない世の中を生き延びるために、臨機応変できるようでありたいが、果たして、この世の組織の動きは、みんなの命を守れるのか・・・。
令和2年文月 降り続く雨の日
書 渡邊渓山氏
「長い長い名前」(『新潟のむかし話2』(新潟県小学校図書館協議会編2006年)収録)の挿絵を元に筆写
悠久城風の間 http://yuukyuujyou.starfree.jp/
Works 旅の声 2020年 7月 26日収録
新潟のむかし話2「長い長い名前」