突然、つれあいに先立たれたばばさの家に、一夜の宿を乞うた、旅のもん。
汚れたなりに警戒心を持つばばさに、「旅の僧だ」と言って安心させた。
翌朝、ばばさはさっそく、「じじさにお経をあげて」と頼んだが、にせ坊さまは、困ってしまう。するとそこに、木魚の音に誘われたかのように、チョロチョロと出て来たネズミ一匹。にせ坊さまはさっそくこれをお経にしてしまう。「オンチョロチョロの穴のぞき~」
そうするとまた、別のネズミが一匹出てきた。2匹は何やら話をしているよう。そして、一匹が帰り、またもう一匹も穴に帰った。
これを、にせ坊さまはそのまま記述するように読み上げた。
こうして出来上がったのがネズミ経。
ばばさは、「これは変わったお経だな」と思いながらも、簡単で覚えるにいいから、ありがたがって愛誦することになった。
毎日ネズミ経をあげていると、このネズミ経の効果は絶大である。
ばばさの家に入ろうとした泥棒二人組。ばばさの唱えるお経を聞いたら、ぶるぶる震えて逃げ帰ったのだ。このことをみても、ネズミ経がいかに霊験あらたかであるかがわかるであろう。
この霊験というのは、ばばさの素直なこころから生み出されたものなのだろう。
ばばさは、じじさにお経をあげたかったのだ。じじさの死を弔い、じじさを慰めたかった。お経をあげている時は、じじさを思い、じじさのぬくもりも感じられていただろうか。お経をあげているばばさは可愛らしく、しあわせそうだ。声にしてお経をあげることが、ばばさの喜びにもなっているようだ。
お経の内容より、お経をあげるという行為そのものが、大切なのだと思う。
ところで、続いてここで、このネズミ経の意味も考えてみよう。
ネズミが一匹出てきて、またもう一匹出てきて・・二匹のネズミが頭をつき合わして何か話をしているような・・・
ばばさは、自分とつれあいじじさの出会いと語らいとして、これを読んでいたのかも?
じじさは亡くなり、そして自分もまた、いずれ穴の中にもどるだろう。いつかは亡くなってしまういのちだけれど、二人の語らいのときは確かにあった。それを何度も何度もばばさはお経とともに思い出すことができる。
わたしは、はじめこれは、おかしくておなかをかかえる笑い話として、面白く作られているのだと思っていた。しかし、このネズミ経。お経としても実によくできていることに気づく。
これは、ばばさの家のネズミの生態を記述したものというよりも、われわれの人生そのものを映し出してもいるではないか?
わたしたちはあるとき、子宮の穴から顔をのぞかせ、人生の表舞台に出てくる。そして、そこにはまた他者も出てくる。わたしたちはその舞台で互いの人生を語り合うのだ。やがて舞台から、ひとり去り、またひとり去る。舞台が空になっても、わたしたちが生きた人生は確かにあった。
これは全く、わたしたちの有り様そのものである。
ネズミ経は人生の真実を難しい言葉を用いることなく、シンプルに描き出している。
とてもシンプルで本質的であり、詩といってもいいかもしれない。なんと、旅のにせ坊さまは詩的センスにあふれていたことか。本質的なことは、シンプルだ。人でもネズミでも。
ネズミ経はシンプルで、かつ、ありがたい。
令和2年皐月 解除といわれても自由になりきれない日々・・
令和からの紙芝居と語り 悠久城風の間ホームぺージ
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Works 旅の声 http://yuukyuujyou.starfree.jp/works.html
2020年5月16日収録 新潟のむかし話「ネズミ経」
https://www.youtube.com/watch?v=FdEg3vho48Y