悠久城風の間 blog語り部のささやき

悠久城風の間の語り部 楯よう子のささやき

「声出し」

f:id:yuukyuujyou:20191114103805j:image

「駆け込み訴え」をいきなり声を出して読んでみた。意外に滑らかに読める。それもそうだ。太宰が大変な勢いで、妻に口述筆記させたものだというし、何しろ駆け込み訴えなのであるから、もともと滑らかな話ことばでできている。
「全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった」と妻の証言があるという。さすがだ。
太宰というと、何回も入水する人というイメージで、わたしのなかに忌避するものがあった。もっともわたしは、太宰作品を読まなかったというより、小説そのものを読むことがなかった。日々の暮らしに追いまくられていたともいえる。目の前の現実をさばくのに忙しく、虚構の世界に遊ぶいとまはなかった?
ただ、これを読んでみると、虚構に遊ぶともいえない。なんだろう。声を出してみると、ぎょっとするものがある。声に出さなければ、わたしはここまでぎょっとはしなかったかもしれない。
声を出すことで、わたしの中から引き出されてくるものがある。わたしの声がわたし自身をあぶり出してくる。わたしの恨みを、ねたみを、あこがれを、希望を・・。
日本語で、話ことばと書き言葉とは違うが、書き言葉でも目で読むのと、声を出して読むのとはまた違う。声に出す、出さないで違いがある。もっとも声を出すといってもいろんなレベルがある。棒読みと市原悦子さんの朗読は違う。音読するとき、わたしたちは文字を手がかりに言葉を音に変換する。はじめは機械的な棒読みだ。ただ、わたしたちは読み上げロボットではない。声に出しながら言葉の意味が頭につながると、わたしたちの声はロボットの声ではなくなってくる。言葉の意味がその情景が、わたしたちの感情を動かしてくる。そして感情が声にのる。発せられた声はさらに感情を動かすようだ。目で読むときは、象形文字やひらがなやカタカナの形は、声ほどわたしたちの感情を動かさない。声を出すと感情が引き出されてくる。声が、隠れていた感情をも引っ張り出してくる。
わたしたちは言語を獲得するずっと以前から声を持っていた。言葉は情報を伝える。言葉を声にのせると、生きるために必要なこと、大切なことをより深く伝える。わたしたちは、生きるために必要なこと、大切なことを深く伝えるために、感情を発達させてきたのだろう。
声を出すと、閉じられていた感情のふたが開く。
そのことを体験させてくれたのが、太宰治の「駆け込み訴え」である。


令和元年霜月 小雨降る曇り空に薄ぼんやりと虹の見えた日

 

悠久城風の間  http://yuukyuujyou.starfree.jp/

works旅の声  http://yuukyuujyou.starfree.jp/works.html


「駆け込み訴え」太宰治

https://www.youtube.com/watch?v=pZ6HhsAoMBk