悠久城風の間 blog語り部のささやき

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「野生のような生きる勇気」

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羅生門」が国語の教科書の定番だと聞いて、わたしは驚いたのだった。当然、高校だと思ったら、中学校だったという人も複数いて、「私、好きでした」と若い女性が言うのを聞くと、なんとなく戸惑ってしまう。
明るく清潔な教室。きちんと並べられた机と椅子。静かにお行儀よく着席している生徒たち・・。そこで「羅生門」を読んでいた?
高等学校の必修教科『国語Ⅰ』の共通教材だと書かれてるのを見たが、そうすると日本の就学率からすると、今日、日本人の大部分が教科書の中で「羅生門」を学んでいたのか?
わたしは、日本の中学、高校は出たが、教科書で「羅生門」の記憶はなかったから、同じ学校の同じ学年だった、わたしより記憶力のよい人たちに聞いてみたところ、彼と彼女の記憶にもなかった。念のため一つ上の学年の人に聞いたら、彼にはあった。時代にもよるが、今日「羅生門」は教科書の題材として、より好まれるようになってきているのか?
わたしの「羅生門」の印象はまず、陰惨なものだということである。死体が無造作に投げ捨てられ、いくつも転がっている光景など、昨今の日常では実際に見ることはない。清く、まだ幼い人たちに見せたくはない。明るい教室で、この話を読んでいいのか?彼らは読んでどう感じるのか?わかるのか?これはアングラの世界でしょ。やばい話でしょ。
自分が生きるためなら、盗みをしてもいいのか。いいのだ。しかし、それは明るい教室で言っていいことなのか?秩序を重んじる学校教育の中では、ルールを破って生きることは、エゴイズムと名付けられる。アングラの世界ではそれは真っ当なことであろうと。
実のところ、わたしは「羅生門」が教科書に取り上げられていることが、残念だった。教室のなかでは、立場上、下人はエゴイストで悪い人になったとされてしまいそうだから。
10代のわたしが、規律を貴ぶ教室のなかで「羅生門」を読んだら、どんな風に思っただろうか。幼く、ぼんやりなわたしは、やすやすと指導書や教師や周りのクラスメートの誘導にのるだろう。
でも、今はそうではない。「羅生門」はあっさり読むとまがまがしい話だが、声を出して読んでいくうち、そうではなくなってきた。わたしは、下人に同情し応援したくなった。下人は勤め先を追い出され、雨の中で途方にくれていた。まじめだから悪いことをしてはいけないと思っている。しかし、社会保障はなく、食べるものも住むところもないのだ。死人がごろごろ転がっているところで寝るつもりなのだ。そんな死人の横に寝ていて、そのままだったら、自分も死人になるでしょ?それでいいの?そうでないと教えてくれたのが死人の髪を抜く猿のような老婆だった。どんな方法でも見つけて生きろと。下人を救ってくれるような社会システムがないのだから、その社会の道徳や法に縛られる必要はないのだ。気取っている場合ではない。下人に野生がよみがえった。
自由に望むように生きることができない人生を抱えて、芥川は、それゆえにこそ強く生きることを求めていたのだろうと思う。病弱だったという芥川は、だからこそ、強く生きたいと思っていただろう。
下人は、右の頬にあるにきびを気にしているから、青年のようだ。生きることは当たり前だ。生きることが困難になった時、自分を生かすためにどうしたらいいか?何ができるか?手段を選んでいるいとまはないといいながら、下人は行動に移せずにいた。下人を阻んでいたものは、彼の道徳観である。しかし下人は、老婆の話を聞いているうちに勇気が生まれてきた。その勇気とは自分を縛っていた道徳観を脱ぎ捨てるために必要な勇気だった。
今日の日本においては、食べるものはあり余るほどあり、飢え死にせずに生きることには、特に勇気が必要ではない。ただ、自分自身を生きようとするとき、それを縛る社会や自分自身の意識を脱ぎ捨てることには、やっぱり大いなる勇気が必要となるのだろう。


令和元年 神無月の末 神はいなくても人は生きる。

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