「三枚のお札」は、おなじみの昔話。全国各地に伝えられているだろう。
昭和60年童心社から出された紙芝居「たべられたやまんば」
作:松谷みよ子 画:二俣英五郎
では、やまんばは和尚にそそのかされて豆に化け、結局、和尚に食べられ、成敗された。
昭和62年教育画劇から出された紙芝居「やまんばと三まいのおふだ」
文:花井巴意 画:福田岩緒
でも、豆に化けたやまんばは和尚に食べられてしまうが、絵がきれいで小僧さんも可愛らしい。
ところで、新潟のむかし話「三枚のお札」はどうか?
これがなかなかの濃い味付けである。やまんばが小僧を襲うところも、リアル。標準語の取り澄ましたところがないためか(そう感じるのは、わたしがいわゆる標準語を母語としていないため?)生々しく肉感的で、より恐ろしさを感じさせる。
「それにしても、うまげだのう」ザランザランとした、とげだらけの手で、おしりや足をなでたり、腹つまずったりしたって。
「ここに塩かけて、ガリガリとかじりたいもんだのう」きたならしい、よだれをたらして、赤いほっぺたや青いくりくり頭をなあがい舌で、べろんべろんとなめたってや。
(これを読むと、わたしは、いつの間にか自分の舌がなーがく伸びて、小僧の頬をなめている気になってしまう)
それから、話の筋で、新潟のむかし話と紙芝居2作品との大きな違いは、三枚のお札の入手元である。紙芝居では、和尚さんが小僧に与えた。しかし、新潟のむかし話では、せんち(便所)の神様がくれたのである。紙芝居の和尚さんは、栗拾いに出かける小僧に、やまんばに出会った時の用心のため、山に出かける前にお札を渡していた。しかし、新潟のむかし話では、
「まだ。まだ。あっぱの、さかり」 ブルブルふるえながら小僧がいうたら、せんちの柱にお札がはってあって、気のどくに思ったのか、せんちの神様がでてきなさって、「このお札、三枚くれるすけ、はよ、逃げていけ」
というのである。和尚様と神様を比べるのは失礼だが、神様のお札のほうが霊験あらたか、効力がありそうである。また、神棚のお札でなく、せんちの柱のお札となると、ありがたいだけでなく、より人間の生理に根差した、それだけ生死にかかわる強力さを感じさせるのである。小僧にしてみると、やまんばに出会うとは考えていない時にもらったお札と、やまんばに食べられるこわさに震え、必死になって逃げようとしていたときに授かったお札と、重みはだいぶ違うだろう。小僧の必死さを見て、せんちの神様がお札を授けてくれた。この小僧の生きのびようとすることの必死さ。その叫びが、せんちの神様に届いた。小僧は、やまんばに食べられずに逃げ切れた。
民話では、小僧のように無垢で純粋なものが必死の叫びをあげると、お札がもらえて道が開ける・・・
それでは、わたしたちは、どうだろう。無垢で純粋か?必死に生きようとしているか?
あたりかまわない叫びをあげるほどに真剣か?
都会のトイレのどこかに、目に見えずとも、お札が張ってあるだろうか?
せんちの神様は、まれには都会の清潔なトイレにも、まだ息づいているのか?
わたしたちの窮地に、果たして、せんちの神様は心を動かすか?
ウイルスどもが人々を食べつくす前に、力を発揮するお札はあるか・・・・
令和2年卯月 桜咲く中、都市の叫びは聞こえるか?
令和からの紙芝居と語り 悠久城風の間ホームぺージ
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Works 旅の声 (やっとYouTubeにアップロード)
2020年3月28日収録「三枚のお札」
新潟のむかし話 こわくてふるえる話
https://www.youtube.com/watch?v=RIeK2ZrIBHo&t=20s