わたしが新潟のむかし話の「ばば皮」を気に入ってしまったのも無理もないことだ。
むかし話の娘は、ばば皮を着て山賊をやり過すなどして生き抜き、チャンスが来ると、ばば皮をクルッと脱いで幸せをつかんだのだから。ここには娘のひとつの正しい生き方が示されている。
どの時代でも可憐な娘にとっては、いたずらに山賊らの関心を引かないようにすることは大切だ。世間は悪意に満ちているわけではないが、やはりよろしくない輩はいる。とりあえず、それらから身を守らねばならぬ。
むかし話の娘は山賊に襲われないように、ばばの姿に身をやつした。しかし山賊の危険を通り抜けてお屋敷を見つけてからも、娘はばばさに化けたままでいた。
「娘は毎日、いっちしまいにふろに入り、庭のすみの物置小屋で寝泊まりしたと。そこは本もしまってある部屋で、小さい時から本が大好きだった娘は、毎晩仕事が終わると、ほんとうの自分にもどって、本を読んでいたと。」
わたしは、このほんとうの自分にもどってのくだりに感心してしまう。お屋敷内ではとりあえず危険はないが、まだ未熟だった娘は働くときはばば皮を着ていた方がよかったのだ。
仕事が終わって一人になると、ばば皮を脱いでほんとうの自分にもどった。そして本を読んで楽しむことができた。社会で働くことと、自分の内的な成熟を図ることとのの両方を行えていた。やがて機が熟し、チャンス到来となった。ほんとうの娘の姿で若旦那と出会えた。めでたし。めでたし。
若い娘には、社会の荒波や脅威から身を守るために、ばば皮は必要だった。
成熟してばばになってしまえば、ばば皮はいらない。
ばば皮を脱いでいてよい。もうばばなのだから。自分(の美しさを)を目立たなくする必要はない。(優れた特性を)隠す必要はない。わざと汚く、低く見せる必要はない、遠慮することもない。おじけづく必要はないはず。もうりっぱな大人。強くなったばばなのだから。借り物のばば皮を脱いで、その下にある地のばばでいけばそれでよい(もう十分戦えるのだから)。
ようやくわたしも遅まきながら、この頃、遠慮することが少なくなってきた気がする。お陰で自由度が増してきた。
国中のばばたちは、ばば皮を脱いでいい。脱ぐとそこには長年しっかり保護してきたたおやかな肌が・・?といけばいいのだが。
ただ、ばばがばば皮を脱ぐということは、むかし話の娘のようにクルッとはいかないことも多いかもしれないのだ。まず、脱ぐということが大変である。長年ばば皮を身につけていると、自分の皮膚とぴったりくっついてしまってくる。これをはがすのは大変である。
むかし話の娘は夜、一人になるとばば皮を脱いでいたけれど、現代に生きるわたしどもは、むかし話の世界よりはるかに多忙で寝る間もなく、ばば皮のままシャワーなどで済ますことも多いかもしれない。それを繰り返すうちにばば皮は、もう自分の皮膚と一体化してしまってくるのだ。
薄い皮をはがすことも大変だが、厚い皮となるともっと大変である。
日々、わたしどもは目の前の現実と立ち向かうために、そのためにばば皮を強化する必要もあったのだ。そうした戦いに明け暮れていると、ばば皮は日毎に厚くなっていく。皮どころか鎧になってしまっているかもしれない。半世紀以上にもわたって、わたしどもが必死にやってきたことはひたすら硬い鎧作りだったのか?
その鎧が脱げたなら、ほんとうの自分を語ることができるだろうか?
社会の中で外側の適応のみに心を砕いてきゅうきゅうとし、それだけでいっぱいいっぱいであるとすると、ほんとうの自分なんてどこにいったかわからなくなってしまわないか。
やっとこすっとこ、ばば皮/鎧を脱ぎ捨てたとき、そこにいたのは空っぽな自分だったとなるのは困る・・・。
もっとも幸いなことに、昨今の人生は思いのほか長いらしいので、仮に今、自分が空っぽに見えたとしても、これからゆっくり情感とか養っていき、本当に好きな自分を作っていくこともできそうなのである。
ともかく、ばばになったら、ばば皮は脱ごう。
そんなものは脱いで、本当の自分を生きていこう。
わたしは、ばばを通り越して山姥をめざす。
令和2年睦月 曇り日
悠久城風の間 http://yuukyuujyou.starfree.jp/
Works 旅の声 2020年 1月 20日収録