新潟のむかし話2の「鯖売りと鬼婆」
この作品に心ひかれるのは、鬼婆のシンプルな生き方を見るからだろう。
わたしは以前から山姥や鬼婆にあこがれていたのだった。
その生命力。鬼婆は、鯖売りの鯖を奪って食べ、牛を丸ごと食べ、それから鯖売り自体をも食べようと挑みかかる。鯖売りはおびえるが、わたしは実は、うれしくなってしまう。
わたしは、鯖売りの立場よりも鬼婆の側に立っているのだった。鬼婆の食べることへのまっすぐな態度。この勢いがうらやましい。そのすさまじさに、感動する。鬼婆は鯖売りに恨みがあるわけではあるまい。通りがかりに見つけた獲物。純粋に食料としてみているのだ。鬼婆には、鯖売りの鯖や牛を奪うことが盗みだという認識、その罪悪感はなさそうだ。鯖売りを食べようとすることも、生血を滴らせることになろうとも殺人という禍々しい犯罪であるとは思ってはいないようだ。
鬼婆は、もう、とうに人間界の所属から離れている。異界の住人だ。鬼婆の中に里村の法や道徳の支配はない。人間界の約束事の領域のはるか外側に鬼婆のくらしがある。自然界にあって、生きるために獲物を追い求めるという当たり前の営みをしているのだろう。
あるのは、生きることへの一生懸命さである。それで鯖売りを
「うぉーい、うぉーい。」
と呼ぶのである。気味悪がらせるためではない。獲物を狙っているだけだ。
わたしはうれしくなってしまうが、これは、鬼婆が婆であるのに狩人であることが、わたしを刺激するからだろうか?
わたしは魚釣りもほとんどしたことがないし、狩猟もしたことがないのだった。幼いころ金魚すくいをしたかすかな記憶だけで婆となってしまっていて、これでいいのだろうか?と思わないではない。近所のスーパーやコンビニに行けば、まばゆいばかりにたくさんの農畜産物、水産物やその加工品、工場製品やらがぎっしり並んでいて、昨今の日常はますます便利で清潔で手軽になっていって、その快適さの中で、生命力の生々しさが、薄れていきそうである。
ところで、鬼婆はただの獰猛な動物というわけではない。いくぶんかの知性がみえる。
荒神さまを信心しているのである。自分の餅や甘酒がなくなっても「荒神さま、荒神さま」という声が聞こえると、
「荒神さまか。なら、しかたねえのう。」
というのである。鯖売りを食べ損ねたときの悔しがりようと比べると、思いがけないほどのあきらめのよさだ。なんて素直なんだろうと思う。
木のからと(入れ物)か石のからとか迷ったときも、キリギリスの声が聞こえると、その声に従うのである。愛らしいほどの素直さだ。
鬼婆は、食料の調達については、それこそ死にもの狂いの頑張りをみせるが、それ以外は自然の声を聞きながら、大自然に身を任せ、自然と一体になって穏やかに生きているのかもしれない。
鬼婆は生命力があって、素直だ。これがわたしの感じる鬼婆のよさである。
鬼婆は鯖売りとも会話していたから、かつては村人の一員だったのかもしれない。なにか不幸な出来事がその身に起きて、村里から離れなければならなくなり、人里離れた山奥に住むようになって、鬼婆と身を変えたのか。そんな鬼婆の経歴や苦しみのありようなど、事情を深く詮索したりしないのも民話のよさだろう。
鬼婆は、ただワイルドにシンプルに生きている。
簡単だけれどおいしい料理があるように、シンプルで力強い人生を送るのがいいなと思う。
令和2年葉月 まだまだ真夏日
絵 悠久城絵師 きらら こと 酒井晃
悠久城風の間 http://yuukyuujyou.starfree.jp/
Works 旅の声 2020年 8月 23日収録
新潟のむかし話2「鯖売りと鬼婆」
こわくてふるえる話
https://www.youtube.com/watch?v=OGnpVKIgSu4