悠久城風の間 blog語り部のささやき

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山の神の仕事は世の資源の平準化?

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例えば試験に落ちたときなどに、「実力でしょ」といわれるよりも「運がなかったね」

といわれる方が、優しい慰めの言葉である。

いわれる方も、自分でも9割方、実力が足りなかったと思っていても、「ああ」とか答えてあえて否定はしない。

実力は自分の努力で、もうちょっとなんとかなったかもしれないが、運は自分の努力ではどうにもならない。努力が足りなかったといわれるよりも、運がなかったね、といわれる方が、自分が責められないですむからいい。

ところで新潟のむかし話の「青竹三本と塩一升」の最後は、「運のないもんは、どこまでも運がないって話さね」で終わっていて、慰めというよりも突き放した感じだ。運がない者は努力しても無駄とまでいっているわけではないのだが、運のない人生というものがあるということを、冷ややかに伝えている。

この運は、お産のときに山の神さんが来てくれて、授けてくれる。たとえば、金持ちの家の男の子には、青竹三本のびんぼう運を。たとえば、びんぼうな家の女の子には、一日塩一升の大吉を、というように。金持ちの家のむすこは、びんぼうな家からきた嫁を器量もよくないと嫌って、追い出してしまう。そうすると、バタバタと身代が悪くなり、まんまも食えんくなってしまった。追い出された嫁は、次のあんにゃのところで嫁になると、そのみすぼらしい家を金持ちにした。そして、青竹で箕を作って売りに来た元の亭主を見て、気の毒に思って、にぎりめしに小判を入れてあげたのだ。しかし、元亭主は、そのにぎりめしを道ばたに落としてしまって、元嫁の好意を受け取ることもできなかった。

びんぼう運を授けられた人は、その不運な人生を生きるしかないのだ。

青竹三本のびんぼう運と、塩一升のいい運と。

むかし話の中では、山の神さんがどうやって運の良し悪しを決めるのかまでは言及されていない。

この話の中では、金持ちの家にはびんぼう運を、びんぼうな家には大吉を授けていた。

そうか!そうしてバランスをとろうとしているのか?それが山の神さんの大事な仕事なのだろう。山の神さんは、運を加減しながら、この世の調和を図ろうとしていたのだろう。

いき過ぎた者にはブレーキを。足りないところには資源の援助を。山の次には谷がきて、谷の次は山がくる。目の前のことだけを見たら、不運な出来事でも、それはそれ以前に、やりすぎがあったからなんだ。それを、山の神さんは全体として平らにしようとしたのでは?

現代はたぶん、やりすぎにあふれていて、それにやっぱりブレーキをかけた方がよいとする力がおのずと働くのだろうと、感染症対策のために、引き続き綿入れで厚着をしながら、わたしは考えたりする。

 

令和2年弥生 まだ綿入れ半纏をはおる3月

 

令和からの紙芝居と語り 

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Works 旅の声 

2020年3月7日収録 

「青竹三本と米一升」新潟のむかし話 

不思議さにひきこまれる話 新潟県学校図書館協議会編

https://www.youtube.com/watch?v=BuYqOt35qFs